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今までナイトメア様の能力を羨んだことなどなかった。 羨むどころか、むしろ気の毒だと思った事すらある。 他人の心など見えても面倒なだけだ、と。 この世界においてその能力は卓越した武力にも匹敵するほど厄介な武器で、それによってナイトメア様が地位と立場を与えられていると知っていても。 それを差し引いても他人の心の中など見たくはない。 俺だったらごめんだ。 ・・・・ずっとそう思っていた。 ―― それが グレイはほとんど無意識にスーツのポケットに入れた煙草入れに自分が手を伸ばしている事に気が付いてそっと元の位置に戻した。 煙草が吸いたい、と思って仕事の合間にここまで来たのだからそれは当然の欲求だったのかも知れない。 けれど、今煙草を吸えば煙ですぐに気づかれてしまうだろう。 グレイが寄りかかったままの窓枠の外、クローバーの塔でもかなり高い位置にあるバルコニーに佇んでいる少女に。 (・・・・アリス) 心の中で呼びかけても件の少女は振り返らない。 自分がナイトメアと同じ能力を持っていないように、彼女もまた他人の心など読めないのだから当然の結果だ。 ましてグレイは今自分の気配を極力抑えている。 現在はナイトメアの秘書として胃を痛める日々だが、武人として卓越した能力をもったグレイが姿を消せばアリスのような普通の女の子が気がつけるはずもない。 けれど、グレイは今、自分がバルコニーにアリスの姿を見つけた時咄嗟に気配を隠したことを後悔し始めていた。 あの時、咄嗟に気配など隠さずにアリスに気づかれていれば、挨拶をしてアリスの隣にならんで・・・・あんな顔を見ずにすんだのに。 キュイィィィ・・・・ 甲高い鳴き声が夜の空間に尾を引く。 このバルコニーからは時計塔の東側に広がる森が一望できる。 そしてこの鳴き声が聞こえる所を見ると、森をクジラが泳いでいるのだろう。 そのクジラを、アリスは見ていた。 多分、グレイがここへ上がってくるよりずっと前から。 証拠はないが確信があった。 そっとグレイは背を預けた窓枠ごしに、その金色の目をアリスへと向ける。 生真面目な性格を表すようにスッと伸びた背筋。 バルコニーに置かれた両手は手すりを縋るように握っている。 平素のスカイブルーのエプロンドレスではなく、会合用の黒いドレスに身を包んだアリスは少し大人びて見えた。 否、大人びて見えるのは服装のせいではなく、その表情故か。 アリスは真っ直ぐに森を、そこで泳ぐクジラを見つめていた。 頑なに何かを訴えるかのように。 引き結ばれた口許は嗚咽をこらえるように堅く堅く閉じられている事は遠目にも見て取れる。 キュイィィィ・・・・ 森の木々の間からクジラが月光の下へ身を躍らせる。 月の下、森を泳ぐクジラとそれを高い塔から見続ける思い詰めた顔の一人の少女。 それはまるで一枚の絵画のように。 ―― ナイトメア様の能力を羨んだことなどなかった。 けれど、初めてあの力を羨ましいと思った。 アリス、アリス。 夜は寝ることにしていると言っていなかったか? どうしてここにいて、どうしてクジラを見ている? そんなに今にも泣きそうな顔をしながら、一体君は何を見つめている? アリス。 君がいっそ君自身がそう言うようにかわいげのない子だったらよかった。 我慢強くなければよかった。 もっと八つ当たりをして、我が儘で、自分勝手だったらよかった。 そうすれば、こんな焼け付くような想いはしなかったのに。 アリス。 意地っ張りのアリス。 ネガティブで内にこもりがちな所があるくせに、本当は寂しがり屋のアリス。 可愛い、可愛いアリス。 どんなに触れても、どんなに囁いてもきっと君はその瞳を俺に向けてはくれないだろう。 クジラを見ているのか、時計塔を見ているのか、それとも帰るべき世界を見ているのか。 今にも泣きそうに辛そうで、そのくせ根底には拭い去れない愛おしさを込めたその瞳を。 ・・・・ああ、ナイトメア様の能力が羨ましい。 あの力でアリスの心を読みたい。 そうすればアリスの心を占めている何かを全て壊してしまえるのに・・・・ (どうにも発想が昔の俺のようだな。) グレイはふっと口許を歪めた。 苦笑をしたつもりだったのだろう。 けれど、その笑みと呼べない笑みがどれほど歪んでいたかグレイは知らない。 靴音も立てずグレイは窓枠を離れる。 音も気配も殺しているから、アリスは未だに振り向かなかった。 その背に近づいて手を伸ばす。 結局、ナイトメア様のように心が読めない俺は。 クジラも、時計塔も、その他の何もかも見えなくなるように。 彼女の目を両手で塞いだ ―― 〜 END 〜 |